杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

とある市民のリスク考(2) ~専門家を考える~

私達がこの世の中で安心して暮らしたいと思った時、やはりリスクは小さければ小さいほど良い訳で、いかにしてそれを小さくするかという事が重要事項となります。
それには「危険の森」から逃げるという方法と、「リスクの木」を伐採し、森全体を小さくするという2つの方法がある訳です。
でも「危険の森」から逃げる事は事実上不可能な話です。なぜなら、たとえあるリスクから逃れられたとしても、その先にはまた別のリスクが待ち構えており、そこからまた逃げてもその先にまたという具合に、結局どこまでも延々と逃げ続ける事となってきりがなくなってしまうからです。
そしてこの方法の危険な所は、たとえある「リスクの木」から逃げおおせたとしても、他の木にまで覆い被さっている「ストレスのツル」が、知らず知らずの内に手足に絡まってくるという事です。
そしてその旅人は、しまいにはそのツルに撒かれて身動きが取れなくなり、逃げたのとは別な「リスクの木」に貼り付けられてしまうのですね。
「危険の森」の中では、「ストレス」は常にあらゆる「リスクの木」に寄生している存在であり、それ故これだけは「木」ではなく『つる』と表現した訳です。
また一方、「木」を徹底的に伐採して、森をまるはだかにしてしまおうという考えもあります。
でもどんなに「木」本体を伐採してみた所で、その根っこまで完全に取り払う事は無理なんですね。
そこまで完全に取り払うべくやみくもに木を引っこ抜こうとしても、そこでも徐々に伸びてきた「つる」に絡まれてしまい、それをまた取り払おうとしてあがく内に、結局無駄な時間と労力がどんどん奪われていくだけという事になってしまう、これが私が思い描く、「ゼロリスク信仰」というもののイメージです。

実際現実問題として私達が行えるのは、やはり「危険の森」を少しでも小さくしていく努力をする事だと思います。それは、木々がうっそうと生い茂り陽も差さなかった暗い森を、少しづつ明るい「林」に変えていくという作業になる訳ですね。
そうした作業に必要となるのが、その木に関する知識と伐採のための道具という訳です。そして、木の生態や弱点とか、伐採の道具の使用法までを伝授してくれるのが「専門家」と称する人達です。

ただし一口に「専門家」と言っても、それはあくまで森の中の一本の木の専門家であって、その人が他の木の事まで詳しく知っているとは限りません。
またその一本の木でさえ、その枝に咲く花だけに詳しい人、葉っぱだけに詳しい人、生った実だけの人という具合に、その専門領域はますます細分化されているのが現状です。
ですから私は、たとえ専門家と言えどもその木すべてに詳しいとは限らず、自分の専門分野以外では我々と同様、実は大した知識も持ち合わせていないという人も大勢いるという認識でいます(テレビやネット内では、「専門バカ」としか言えない様な人の姿もまま見受けられますね。敢えて個人名は避けますが)。
例えば放射線の研究についても、放射線がDNAを破壊するメカニズムには詳しくても、体の修復機能についてはよく分かっていないという研究者は大勢います(→一例)。

つまり、「木を見て森を見ず」という言葉は実は専門家の方にも当てはまる事で、私達がそうならないようにするには、一方向に偏った意見ばかりを聞くのではなく、より俯瞰的な視点から幅広い分野の意見も聞く事が大事であると思うのですね。
そもそもこの森の姿を想像してみれば分かりますが、それぞれの「リスクの木」はそれ単独でそこに生えている訳ではなく、例えば「放射線の木」は「健康リスク」のエリアと「災害リスク」、或いは「経済リスク」のエリアにまで侵食しているかもしれないし、そこにはまた別のリスクの木(例えば「化学物質の木」など)が連なる様に生えており、「ストレスのつる」もそこら中至る所に絡み付いているのですね。
そしてそれぞれのエリア毎に独自の専門家が存在し、彼らはその自分達の専門領域の視点からこの森の姿を論じる訳です。
ですから専門家の主張というのは、決して森全体について語られたものではなく、それはあくまで森の中の一部分について述べられたものであって、それだけを聞いて全体を判断するというのは誤った理解に繋がる恐れがあると思うのですね。

また、説明を受ける私達は、どうしてもその専門家(「科学者」)の人達を「先生」という意識で受け止めます(実際本当の先生もいますし)。
この意識の内側には、「先生の仰る事はすべて正しい」という暗黙の了解事項が刷り込まれていると私は思っています。
そうするとつまり、先生の言った事にもし間違いがあった時でも、私達はその間違いさえもそのまま信じてしまうという事になってしまう訳です。

ここで誤解してほしくないのですが、私は別に「専門家」の意見を当てにするなと言っている訳ではなく、勿論その人だけにしか語れない専門領域については素直に耳を傾ける事が必要だと思っています。それはリスクに立ち向かう強力な武器となるのですから。
しかしその専門家が、ひとたび自分の専門領域外の事について語った場合はどうでしょうか。果たして彼は本当に正しい事を言っているのか、また、一体誰がそこでそれを判断出来ると言うのでしょうか。

私達が常に意識しておかなければならない事は、たとえ専門家(先生・科学者)と言えども、彼らは一人の生身の人間、つまり「普通の人」であるという事です。
そして人間である限り、必ず間違いを犯すのです。
この間違いというのも、それが専門内での事ならば後に他の専門家からの指摘なり直しが入るでしょうが、専門外での話となるとそれはもう当人の「思想」の領域になってしまい、「信じるか信じないか」、「支持するかしないか」という世界の話となってしまいます。
私が一番危惧するのは、受け手側が新たに得た知見の中に、間違った考えやこの個人的な「思想」までも縫合されてしまう事です。
それは、ただでさえ狭い範囲しか見えてなかった領域が、ますます狭く一方的な視点からしか判断出来なくなってしまうという恐れがあるからです。
だから、専門分野を語っている時に、いつの間にか専門外の領域で自分の主義主張を語っている様な人には、思わず危うさを感じてしまうのですね。

じゃあ我々は一体誰を信じたらよいのでしょう。
これがまた中々の難題なのですが、私は結局の所、月並みですが「人を見る」という事に尽きると思っています。

例えば科学者を例に挙げてみますと、科学にはまだ解明できていない事は山ほどあり、それは研究している当人が一番良く分かっているはずです。
今回の原発事故により、これほど多くの人が科学にすがりついている姿を私は今まで見た事はありません。そして皆、科学者の言葉の中に「安心」を願いました。
でもその口から出た言葉は、「分からない」です。
実際は「はっきりしない」と言った方が正確ですが、受け手側から見れば同じ事で、その言葉に多くの人が失望してしまいました。皆「安心」の拠り所が無くなったと【思い込んで】しまったからですね。
でも考えてみれば科学者がこのような言い方になるのは当然の事で、本来彼らは現在判明している事実からしかものを言えない訳で、それ以上を語るのは「無責任」な事でもあるのですね。

私達が専門家と接する時には、まずその人の専門分野をよく確認するという事が必要だと思います。そして、自分の専門の範囲を逸脱してものを語っていないかどうかをよく見るという事が大事なのですね。
私なりの判断の基準としては、
 ・専門外の事を専門であるかのように言う。
 ・判明していない事を判明しているかのように言う。
の二点に該当する人はまず信用しないという具合にしています。
分からない事は素直に分からないと言う、つまり当たり前の事ですが自分の発言にちゃんと責任を持ち、専門外の分野に関しては私達と同様にそのリスクを共有する、このような専門家ならば信頼するに足るであろうと私は思っています。

そして私達は、専門家にすべてを求めるという欲張った考えは持たない方が賢明であると思います。相手にすべてを委ねるという場合、その相手とは専門家ではなく、【教祖】と呼ばれる類の人間である事が多いからです。
時々NPOの代表とかにこういう人がいますが、その人は周りにそう扱われるがため、己自身を専門家であるがごとく思い込んでしまっている場合があります。
そしてそういう人の専門知識というのは、往々にして歪に偏った知識である事が多いのですね。
このようなものに惑わされぬためにも、医療におけるセカンドオピニオンの様に、私達は多方面から複数の専門家の意見を聞き、各分野の専門家が集うシンポ会議録などを自ら調べるという努力も必要になってくるのですね。

若い頃読んだ本の中に、SFの古典「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォクト著)という作品があります。
この作品の主人公は軍人などではなく、あらゆる科学をマスターしてその相互関係を見い出すという架空の学問 、「総合科学」を学んだ若者が主人公でした。
宇宙船に同乗するのは各界の専門家達で、彼らは危機に際してそれぞれの分野からの見解を述べてぶつかり合ったりしますが、「総合科学者」である主人公がそれらばらばらの意見から一つの解法を見つけ出して危機を脱するというストーリーで、今でも印象に残っている個人的に大好きな作品です(→詳しい内容はこちらのレビューを)。
ここに登場する「総合科学者」の役割を担う人が、今我々には必要なのだと私は思います。
「リスクコミュニケーション」の現場では「科学ジャーナリスト」と称する人達が随分頑張っている様に見受けられますが、それでもまだまだ森全体を見渡すほどには至ってはおりません。
それを埋める観点からも、例えば「社会学」など別の分野からの専門家がもっと登場してくれないものかと、私はずっと期待しているのです。
(続く) 



(参考)
・『あいんしゅたいんJEIN』より「放射線は怖い?・・・物理と生物と医学の間にある違和感(ブログ その62)
・国立環境研究所「化学物質の複合曝露による発がんリスクの評価
厚生労働省『職場の安全サイト』より
  「化学物質による災害事例
  「がん原性に係る指針対象物質
・くらしの安全情報サイト「くらしの中の化学物質
・「リスクと生活
・『福島第一原子力発電所事故と原子力安全に関するシンポジウム』より
  「リスクとは何か どう対処すればよいのか(pdf)」
文部科学省福島県内で一定の放射線量が計測された学校等に通う児童生徒等の日常生活等に関する専門家ヒアリング(第3回) 議事録
・「臨床心理士が見た福島県の子どもの現状と対策(pdf)」
・「福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一先生へ
・『ひまわりの種』より「リスクのとらえ方と伝え方
・『Manuke Station : SF Review』より「宇宙船ビーグル号の冒険