杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

とある市民のリスク考(1) ~イメージを考える~

福島の原発災害以来、巷では放射線に対する不安が溢れかえり、特に子供達への影響を危惧する声にどう応えるかが専門家や行政の課題となっています。
特に一番不安視されているのが「ガンリスク」で、それについて「安全」「危険」の二極化された議論が行われ、専門家からは「リスクコミュニケーション」の重要性が叫ばれています。
しかしながら今回の震災、取り分け福島の原発事故では当初はそれがうまくなされていたとは決して言えず、結果それが国民の政府不信や科学不信に繋がり、それについてまた様々な議論が行われる事となっています。

私もネットなどでリスクコミュニケーションのあり方についての議論を色々追ってきましたが、日々更新される情報の渦に翻弄されるばかりで、未だに自分の考えをまとめる事が出来ないでいます。
ただ、その議論を聞いていると、多くはそれを「伝える側」からのものであって、受け取る側から見た議論が少ないような印象を抱いています。
受け手側、つまり私の様な一般の市民は、一体このリスクというものをどのように捉え、どう受け止めればよいのでしょうか。
初めはメモ的に書き散らかしていたのですが、まとめてみたら随分長くなってしまいましたので、これから数回に分けて思う所を書き連ねていきたいと思います。
勿論、自分でも未だにはっきりした結論が出ている訳でもないため、これを「べき」論で語るつもりもまったくなく、あくまで現段階での私自身の個人的考えであるという事を予めお断りしておきます。

まず初めは、「リスク」というものの捉え方について考えてみたいと思います。

原発事故以降、多くの専門家が現地を訪れて講演を行ったり、或いはネット上で放射線のガンリスクについて様々な解説を行ってくれています。そして実際、放射性物質が降下している地域ではそれは大いに有効であったし、初めて知る放射線の害というものを周知させるのは重要な事です。
ただそこで私が気になっているのは、放射線のガンリスクばかりが唱えられる事により、他のリスクが疎かになっていやしないかという懸念です。
現状ではどうしても放射線の害ばかりに目を向けがちで、勿論それは今現在は仕方がない事だとは思いますが、そもそもガンリスクというのは放射線によるものばかりではありませんし、そして「リスク」と言ってもそれはガンリスクばかりではなく、事故や災害など、私達の周りには様々な種類のリスクが存在しています。
だから私は、「放射線のガンリスク」と言われた場合、それは One of Them、あくまで全体の中の一部であるという捉え方をしています。↓
このような事を言うと、それは放射線のリスクを過小評価しているとか、「安全厨」などと揶揄する人が必ず出てくるのですが、ならば放射線のリスクを心配している人は、それと同様に他のリスクも気にかけているだろうか、逆に他のリスクを過小評価していないだろうかとも思うのですね。

放射線のガンリスクを一般の人に分かりやすく理解してもらうために、前回ピロリ菌の記事で紹介したような他のリスクとの比較表がよく用いられます。↓
しかしこのような例を挙げて説明する事に対し、放射線のガンリスクをタバコと比較するのは適切かという議論もあります。
確かに放射線だけに注目すると、自分が望まずにその環境に置かれている状態と、自分の意思で自由に選択出来るタバコのリスクとを比較するのは意味が違うという事も言えるかもしれません。
しかし、実際我々はガンばかりではなく、他の病気や事故・災害など、常に様々なリスクに囲まれたこの「世の中」で【生活】しているのは事実なのですから、リスクというものを全体から見た視点、つまり俯瞰で捉えるという事が重要ではないかと私は考えます。

この表も、放射線だけに注目して見ればどうしても赤い数値ばかりに目が行ってしまい、他のリスクは単なる参考程度にしか受け止められないんじゃないかと思います。
でも実際は、例えに挙げられている事例はすべて我々の周りに実際に存在し、実は誰にでも当てはまる極めて身近なリスクであるという事をまず意識すべきだと思うのです。
実際私自身もピロリ菌が見つかった訳ですが、もしこれが5歳頃から感染していたとするならば、何も知らずに子どもの頃からずっと10倍(1000%)ものガンリスクを背負って生きてきた事になるのです。(→参考

現実の「世の中」には様々なリスクが存在し、私達はそれに囲まれて日々生活している訳ですが、この状態を私はこんなイメージで捉えています。
それは「危険の森」という深い森の姿です。
そこにうっそうと生い茂る木々は、「事故の木」、「災害の木」、「病原菌の木」、「ウィルスの木」、「化学物質の木」、「放射線の木」、etc…そして「ストレスのツル」がそれらに絡みついているという、丁度「ナウシカ」に登場する『腐海』のようなイメージですね。
そしてその森の中を一人の旅人が歩いていて、時折その木の陰からモンスターが現れ、旅人はそれと戦いながら旅を続けるという、まさにRPG(ロールプレィングゲーム)の世界を私は思い描いてしまいます。
私がこんなイメージを抱いてしまうのも、RPG初体験の時の記憶が今でも鮮明に残っているからなんですね。

初めてRPGをプレイした時、私はマニュアルもルールブックも何も読まずに始めたため、まるはだかのまま町の外に出て目の前に現れたモンスターにあっという間にやられてしまう、そんな事を何度も繰り返したりしたものです。そしてしまいには、とうとう私は町の外へ出るのが怖くなってしまいました。
町を出られなくなった私はそれからやっと町中を探索し、偶然ぶつかった住民が旅のヒントを教えてくれる事を知り、この時初めて私はゲームの進め方を知ったのでした(シューティングばかりやっていたクセで、それまで住民達を避けて歩いていたのです)。
町の外に出る前に色々な場所で情報を得、新しい武器や回復の薬など旅のアイテムを手に入れ、万全の備えをしてから出発する、これが本来のゲームの進め方だったのですね。
こうしてすべての準備を整えてからようやく町を出ると、早速モンスターが襲い掛かってきました。
しかし今度は私の剣の一振りでそのモンスターはあっという間に倒れてしまい、そこで自分のHP(経験値)(=寿命)がアップするという事を知り、ゴールド(お金)も新たに手に入るという事を知ります。
こうしてゲームのルールを理解した私は途端にRPGの虜になってしまい、あれほど恐れていたモンスターが、実はスライムという雑魚キャラであったという事を後で知る事となるのです。

RPGゲームは人生のゲームだとも言われます。襲い来るモンスターはまさにリスクそのものとみなす事が出来ます。そして我々は、そのリスクと戦いながら歩み続ける旅人です。
何も持たずに「危険の森」をさまよい、常に「リスクの木」の影に怯え、いつモンスターが現れるかとびくびくしている旅人の姿は、まさに何も知らなかったあの頃の私自身の姿です。
しかしもし強力な剣と盾という武器を備えていたら、どんな敵が現れても冷静に闘う事が出来るはずです。
この剣こそ「知識と情報」の剣、つまり『知性の剣』であり、そして防御の要である盾は、決してその場の感情に左右されない『理性の盾』だと私は考えています。
この武器を持つ事により、たとえ木の影から「デマゴーグ」などという雑魚キャラが襲ってきても、それを一撃で倒す事が出来るようになるのですね。
今回発生した原発事故により、私達は初めての危機に直面しました。それは丁度「放射線の木」の影から、何も持たない旅人に突如モンスターの大群が襲い掛かってきた様なものです。
でも正確な情報をより多く手に入れる事により、今度はそれを武器として私達はモンスターに立ち向かう事も出来る訳です(かなり手ごわい相手ではありますが)。

ただそこでよくよく注意すべきなのは、あまりにも放射線のリスクばかり注視していると、その木はだんだんと実際以上に大きく見えてしまうという事です。
それをより詳しく観察しようと近づけば近づくほど、今度はその木の陰になって他の木の存在が見えなくなってしまいます。まさに、「木を見て森を見ず」といった状態になってしまうのですね。
今回の原発事故に対する過剰なまでの反応は、森の中で「放射線の木」が大きくなり、それがために人々はその存在に気付き、皆でその木の細部にばかり目を凝らしているという状態に私には見えてしまいます。
勿論他の人がイメージするその木の大きさは、個人個人の放射線に対する考え方によっても違うでしょうし、原発周辺とその他の地域でも違うはずです。おそらく原発近辺では、「放射線の木」は巨木となってそびえている事でしょう。
でもたとえその木が大きくなったからと言って、他の木が小さくなったという訳ではないのですね。
前に示した円グラフでは、仮に一部のリスクが大きくなったら、それに伴い他のリスクは小さく表わされてしまいます(割合のグラフだから)。だから一見、他のリスクが減ったような印象を受けがちともなります。
でも実際は、リスクというものをこの「危険の森」というイメージで捉えた時、他のリスクの木は今まで通り、そのままの姿でずっとそこに存在し続けているという事に気付かされるのです。
(続く) 


(参考)
・国立ガン研究センター ガン情報サービスより「人のガンにかかわる要因」
・国立ガン研究センター ガン予防・検診研究センター「放射線による発がんリスク」(pdf)