杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

とある市民のリスク考(3) ~アナログで考える~

人はいつから「アナログ思考」を捨ててしまったのか。

昨今の原発関連のニュースを見聞きする度、ついそんな思いが湧き上がってきます。
元々ヒトの暮らしというのは、陽が登ったら起き沈んだら眠るという具合にきっちりとした時間に縛られていたものではなく、それは体の代謝機能や感覚なども同様で、本来は「およそ~」とか「~ぐらい」と言う様にアバウトなもの、つまりアナログでした。
アナログというのは一連の流れを意味します。元々変化の度合いというのは段階毎にきっちりと区切りをつけられるものではなく、例えば季節の移り変わりの様に徐々に変化しているものです。
それが文明の発達に伴い、ヒトは時間や数字に縛られるようになり、いつの間にかあらゆるものを数字で判断してしまうという思考形態に変化してしまいました。
つまり「デジタル思考」です。
勿論人生には「イエス」か「ノー」の最終判断を下す場面は常にあるのですから、ヒトの思考には元々「アナログ思考」と「デジタル思考」が同居している訳です。
しかし最近、物事の流れを分断して数値化し、「イエスかノーか」、「オンかオフか」という単純化した二者択一の議論を行う、この様な言説がやたら目立つ様な印象を受けています。

原発事故以来、私達の日常に普段聞きなれない新しい単位ベクレルとシーベルトが登場し、それはニュースでも連日取り上げられ、その数字が登場しない日はないという程になっています。
空間線量についてはこの所大分落ち着いてきた感がありますが、今現在は食品に対する放射線汚染が不安視されている状況です。
これについて気になっているのが、この数字そのものに対する過剰とも言える反応です。

政府の放射線ガイドラインとして年間1ミリシーベルト以下という数字がありますが、これはあくまで法律上の数字であり、要は少しでも正常値に近づけるための目標値であって、この値を超えたから危険という訳ではない事は、現在は誰もが理解している事です。
ただそれが、食品の話となるとまた別な様なのですね。
今現在、食品には暫定基準値というものが設けられていますが、大抵のお店ではそれよりも遥かに低い数値(或いは検出限界以下ND)の食品ばかりが売られていて実質上はそれほど心配する事はない訳ですが、そうすると今度は、もっと低い数値でなければ安心出来ないという人達が声を上げ、まさに「ゼロ」しか認めないという極論が語られたりしているのですね。(→こんな具合

この「ゼロリスク信仰」こそ「デジタル思考」の最たるものだと言えますが、この思考のもう一つの特徴は「数字」に捕われてしまうという事ですね。
よく健康診断などでは検査毎に様々な数値が提示され、それの上下によって私達は自分の健康状態を知る訳ですが、ご存知の通りこの数値基準は万人が共通という訳ではなく、個人毎に幅があるものですよね。
その人が正常か怪しいのかの境界線はきっちりと区切られている訳ではなく、例えば血液検査の項目を見ても、血糖値の正常基準値は70~109などという範囲で表されており、それを少しでもオーバーしたら途端に糖尿病と診断される訳ではありませんし、その結果を見た当人も、「高いなぁ。」とか「アルコールを少し控えよう。」などと思うだけでしょう。
これはその数値はあくまで一つの【目安】であって、体の代謝機能などは元々アバウトで個人差もある事は誰もが理解しているはずでした。
ところがこと放射線の事となるとなぜか、ある一定量を超えたら皆ガンになるという強迫観念に捕われてしまうのですね。
そして政府が定めた「基準値」に対する不信感も増大し、いつしかその「数値」ばかりに目を奪われて「量」の概念を忘れてしまう、そんな風に感じられてしまいます。
ガン死のリスクがちょっぴり上がると言われている「100ミリシーベルト」、食品の暫定基準値「500ベクレル」、世間では一体どちらがより危険だと感じられている事でしょうか。
この数字を少しでも超えたら「危険」と見なしてしまう人は、すっかり「デジタルの罠」にはまっていると言ってもよいかと思われます。「安全」か「危険」か、「不安」か「安心」かという具合に、完全に白か黒かの二元論に捕われてしまうのは、思考そのものがデジタル化されてしまったとも言えます。
本来「安全」も「危険」も、実際は「大体安全」とか「やや危険」という具合に【程度】というものが存在しますよね。ところが今は、100%か0%かといった極端な思考に走る人が多くなっていると感じられてしまうのです。

かつての料理番組では、レシピなどは「小さじ一杯」「大さじ半杯」などと言われてましたが、いつしか「砂糖15g」、「醤油10g」などと具体的な数値で表される様になり、天気予報も「大体晴れ」ではなく「晴れの確率80%」などと、「程度」すら数値化されて表示されるようになりました。
クルマのカタログからはエンジン性能曲線が消え、ただ馬力とトルクの最大値だけが載るばかり。そのグラフ形状からエンジン特性を想像するという楽しみも今はありません。
受験に関しても今は偏差値尊重、正解か否かだけの学力テスト、「勝ち」「負け」で決められてしまうこの世の中、いつの間にか私達の思考そのものも徐々にデジタル化されてしまったのかもしれません。
そこに今回の震災が追い討ちをかけます。

私達の生活にはアナログとデジタルが混在しています。それは「危険の森」についても同様で、健康被害というものは徐々に、災害は突如襲ってくるものです。言うならば、健康リスクはアナログ的で災害リスクはデジタル的とも言える訳です。
突如襲ってきた今回の震災により、私達はそれまでいつも通りに流れていた日常を一瞬の内に失ってしまいました。そしてそれは直接の被災地以外でも、それまで意識した事さえなかった「安全」の二文字が、原発事故により一瞬にして奪い去られてしまいました。
これは、今までいつもの様に流れていたアナログの世界が、一瞬でひっくり返るというデジタルの世界にとって変わられた様なものです。
まさに、「危険の森」を行く旅人の前に「災害の木」から突如ボスキャラが登場し、彼は構える間もなく「知性の剣」も「理性の盾」も奪われてしまった。そして彼はそこから必死に逃れようとして「ストレスのつる」に絡まり、「デジタルの罠」にはまってしまった。
今回の原発事故はこういう状況なのだと思います。
被災地からの物資受け入れ反対による祭りの中止やがれき受け入れ反対騒動などは、皆この「デジタルの罠」に陥っている表れと言っても良いでしょう。
そこではただ、「危険」か「安全」かの単純な二者択一の思考しか行われず、「程度」とか「量」といったアナログの概念が欠落してしまっているのですね。

人の五感や代謝機能などはそれこそ人によって千差万別、とても一つの基準で統一など出来るものではありません。
それでも、広く国民に向かって訴える場合はどうしても系統だった基準となる数値が必要になってきます。また、これからの対策を立てる上でも数値というのは必要で、そのために段階的な数値の区切りが用いられる訳です。
つまりその数値というのはあくまで社会的なものであって、それが直接個人に当てはまるかというと決してそうではなく、実際の個人レベルではかなりの「範囲」や「ばらつき」、つまりアバウトさがあるのですね。
放射線のリスクを示すのに、よく正比例の直線グラフが用いられます。
このグラフを坂道と仮定し、自分がそこを駆け上がっている姿を想像してみましょう。
上に登れば登るほど疲労困憊して病気にかかるリスクは上がる訳ですが、それでも坂道はずっと上まで続いている訳です。
ところがデジタルの罠にはまった人はしきい値よりも遥か手前で立ち止まり、その先は崖になっていてそこを超えるとたちまち奈落の底に落ちていくというイメージを持ってしまうのですね。
昔見た黒澤明の映画「夢」の中に、見えない恐怖に対応出来る様科学者が放射線に色を付けたら、原発事故でその放射線が漏れ出し、その色付きの煙にパニックになった住民達が次々と崖から身を投じていくという一篇がありましたが、まさにそんな状況を思い浮かべてしまうのです。
でもその坂道の先には、実際はまだまだ長い道のりがあるのですね。↓

だからこそ、こういう状況下では尚更「アナログ思考」が必要なのだと私は思う訳です。
「程度」や「量」の概念と曖昧な境界線、デジタル思考に捕われてしまった人には中々簡単には変えられないかもしれませんが、この世の中は白か黒だけではなく、その間には白から黒へ徐々に変化するグレーゾーンが存在し、私達はそういうアナログ世界に生きており、自分達自身もアナログの存在であるという事に気付いてもらいたいのです。
(続く) 



(参考)
・「アナログ思考のすすめ
・『官能小説書きの道化師-R18指定』より「デジタル思考とアナログ思考
・FOOCOM.NETより「イオンさん、グリーンピースに褒められて嬉しいですか?
      「放射線と食品中の発がん物質、どちらが危ない?〜畝山智香子さんの本で考える
・「リスク評価を読み解くハンドブック
・『buveryの日記』より「セシウム内部被曝と汚染地で生き続けること
・『山賀 進のWeb site』より「4.5 放射能の危険性
・「科学技術のグレイゾーンリスクと生活者」(pdf)
・『うさ家の生き残り大作戦』より「一番混乱するグレーゾーン