杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

みんな被ばくしていた

〔注:誤読されやすい内容ですので、ぜひコメント欄もお読み下さい(2012年1月22日追記)〕

5月27日、文部科学省は父兄達からの不安に答えるべく、上限20ミリシーベルトとしていた学校での児童・生徒が受ける年間放射線量を、1ミリシーベルト以下に抑えることを目指すという方針を打ち出しました。
あれほど頑なであった政府ですが、不安を抱える地元の父兄のデモなどにより、とうとう折れたという形での発表でした。

しかしこれまでの経緯を見ていますと、私には学校側も父兄側も皆、数字ばかりに捕われすぎているように感じてしまいます。
ひとえにこれは、放射線というものが目に見えず、危険か安全かが数字の大小でしか判断出来ない所からくる不安なのですが、「今すぐ健康に影響が出る値ではない」などという、何とも曖昧な政府の発言に寄るところも大きいと思えます。
つまり父兄には、安全の「目安」が見えないのですね。

しかしこの「目安」というものですが、原発事故というとすぐにスリーマイルやチェルノブイリと比べられたりしますが、生活の中での低線量被曝を比べるなら、60年代を参考にした方がいいのではないのかと思うのです。

週間新潮4月14日号で、「あなたが子供だった時、東京の「放射能」は1万倍」との刺激的なタイトル記事が掲載されました。
それによると、米ソの冷戦華やかりし60年代、大気中でぼかすかと水爆実験をやったおかげで、たくさんの放射性物質が東京にも降り注いでおり、その最大量は平時の一万倍にも及んだという事で、そのデータは気象庁気象研究所で観測されていました。

このデータは東京都での事ですが、別な資料を見ると関東全体でも同様な値が観測されている事が分かります。

そしてこの事は日本だけではなく世界中がそうであったという事が、こちらで紹介されているドイツのデータを見れば良く分かります。

いずれも1986年に一つのピークがありますが、これがチェルノブイリ事故の時のもので、この時も多くの放射性物質が拡散されたのが分かります。
ただこの時観測された量は1960年代と同じぐらいであって、60年代はこのレベルがずっと10年ぐらい続いていた訳です。

ではこの当時、子供達はどんな暮らしをしていたのでしょうか。
当時は低レベル放射線が健康に影響を与えるなどとは考えられていませんでしたから、皆何も気にする事なく普通に暮らしていました。
学校生活を現在と比べると、土曜日は半日授業が行われており、また校庭の使用制限などありませんでしたから子供達は朝の始業前・昼休み・放課後と、とにかく皆ヒマさえあれば校庭で遊びまわっていました。つまり現在よりもかなり長い時間、校庭を利用していたのですね。
生活環境でも、道路は当時はバス通りぐらいしか舗装されておらず、ほとんどの道は未舗装(でこぼこ道)でした。だから車が通る度粉塵が舞い上がり、マスクなど誰もしていませんでしたから、子供達は皆それをそのまま吸い込んでいました。
また雨が降るとどこにでも水溜りができ、放射性物質は当然そのまま土中に吸収されていた事になります。
夏場は勿論クーラーなどはありませんでしたから家の窓は開けっ放し、子供達は皆「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれた様に、扇風機の前で「あ゛~~~~~」なんてやっていた訳です。

食卓においても、当時は放射線検査など行われていませんし、勿論出荷制限など何もありませんでした。
従って、放射性物質が付いていようといまいと、人々はそれをそのまま食卓に上げていたのです。
その頃の小麦の汚染状況を環境化学分析センターが調べていました。それが下のグラフです。

これを見ますと、上記大気中の放射線のグラフと見事にシンクロしているのが分かります。
つまりこの当時、程度の差こそあれ、ほとんどの作物は放射能汚染されていたという事です。これらの食物を、当時は大人も子供も何の不安も抱かず平気で食していた訳です。
この様な状況を見てきますと、当然の帰結としてこう言えるかと思われます。つまり、

当時の人達は皆、内部被ばくしていた。

という事です。
では一体どれほどの被ばく量であったのか。それを示すデータがここにありました。

しかしこれを見ても、1964年頃はもう縦軸をはみ出しているほどで、はっきり言ってどれほどの被ばく量であったのか具体的な数値はよく分かりません。それにこれは、あくまで大人のデータです。
子供について考えると、子供は日中外で過ごす事も多く、また大人よりも地表面から近い位置に常にいたのですから、もしかしたら大人よりも多く被ばくしていたかもしれません。

ではその時の子供達はその後、重い放射線障害等になったでしょうか?
当時の子供達は現在、50~60歳台の立派なオヤジになっています。そして今でも、我々に元気で働く姿を見せています。
その様子を見ていると、とても子供の頃に被ばくしていたようには見えません。つまりあの頃浴びた放射線の量ぐらいでは、我々の体には何も影響はなかったのです。
言い方を変えますとこれは、

あの頃の放射線量ならば「安全」である。

という事なのですね。

ではこの当時の放射線量が安全であるならば、これを一つの「目安」に使えないものでしょうか。
現在放射線の許容量については色々数値が示されていますが、一般の人が分かりづらいのは単位がバラバラに使われているからという事もあります。
ですから例えば、当時の放射線量を「1」として現在は「0.8」だから「安全」とかいう具合に、或いは基準値に幅を持たせた「安全レベル」(危険レベルではなく)など、当時のデータを基準とした「安全指数」という様なものを示し、住民達の不安を少しでも解消出来ないものかと思う訳です。
これから研究機関がすべき事として、まずばらばらに使われている単位の統一と、この60年代の再検証作業と総括をぜひともお願いしたい所です。
50年代から観測されてきたデータを、現在の福島原発周辺の環境変化を元に再検討し、当時の放射性物質が「どこ」に「どれぐらい」降下し、そしてどれぐらい体内に取り込まれたか、より繊細なシミュレーションを行い、それを基礎データとして目に見える形での安全レベルというものをぜひとも提示してもらいたいものです。

あのチェルノブイリでも、現在もっとも深刻なものは不安による精神疾患だと言われます。福島県原発周辺地域でも、その不安は広まりつつあります。
だから尚更の事、政府や研究機関は不安を煽る危険情報ではなく、安心を与える正しい安全情報を分かりやすい形で伝えるべきです。
そのためにも、60年代当時の状況をより詳しく精査し、地表面にはどれほどの放射性物質が堆積していたのか、子供達の生活環境にはどれほどの量があったかのを明らかにするのが重要となるのです。

60年代~70年代に行われた大気中核実験は、いみじくも低レベル放射線の人体への影響を調べる世界規模の壮大な人体実験を行ったのと同じ事でした。
そして結局、あの程度では人体には何の影響も無い事が確認された訳なのですが、それでも研究者達は「安全」という単語はどうしても使えないため「分からない」という曖昧な解答しか出す事が出来ず、結果その事が国民の不安をますます増大させているという事になってしまっているのです。

東京オリンピックが開催されたあの年、日本国民は誰もが、高い放射線が降り注いでいた事など気にもせず、日本選手の活躍に声援を送っていました。
そしてあの時、汚染された空気を吸い、汚染された食物を食べながら一緒に声援を送っていた子供達は今、周りを見渡せばそこかしこにごちゃまんと存在しています。
彼らこそあの時代の【生き証人】であり、そして「語り部」でもあるのです。


(参考)
気象研究所地球化学研究部 「環境における人工放射能50年:90Sr、137Cs及びプルトニウム降下物
・「環境放射線測定状況」より 「関東各地域における月間降下物中のCs-137の経年変化
環境化学分析センター 「わが国における小麦の放射能汚染」(pdf)
広島県保険健康センター 「広島県における環境放射能調査」(pdf)
・「暮らしの中の放射線」より「放射性降下物」(pdf)
原子力安全年鑑昭和58年版 「第3節 フォールアウトに起因する環境放射能の調査
・「日本の環境放射能放射線」より「測定データで見る「過去の出来事」
・『Ddogのプログレッシブな日々』より「「あなたが子供だった時東京の放射能は1万倍!」週刊新潮記事を読む
・SMC JAPAN 「【寄稿】核実験フォールアウトとの比較:一瀬昌嗣・神戸高専准教授
・『Ketupa blakistoni』より「低レベル放射線キャンペーン
・FOOCOM.NET 「超訳・放射能汚染2~毒性学の建前は「極力低減」
・「放射線の影響がわかる本」より「第14章 放射線のリスク」(pdf)
・「放射性物質の基礎を学ぶ」(pdf)
・日経メディカルオンライン 「チェルノブイリの健康被害、最も深刻なのは精神面への影響
・カラパイア 「世界各地で行われていた核実験爆発の写真
"1945-1998"BY ISAO HASHIMOTO(←必見!


・「ALWAYS三丁目の夕日'64」(→公式サイト