杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

歯抜けの街 ~一年目の風景~

東日本大震災から一年が過ぎました。今でもあの日の事が昨日の事の様に思い起こされます。
津波に襲われた沿岸地域とは裏腹に地震被害ばかりであった内陸部では、ライフラインの途絶による買出しの長い列がやがておなじみの風景となっていきました。
全国に流れたニュースでは悲惨な津波被害や避難所の姿が紹介されていましたが、市内の宅地被害も実は甚大であった事は、その頃はあまり知られていませんでした。
今回はとある住宅地の、一年経った現在の姿を紹介したいと思います。

地震から2日後、仙台港で起こった火災は未だ鎮火しておらず、その煙は雲かと見紛うごとく、遠くの内陸部でも確認されていました。


自分はこの日、食料の買出しに鶴谷公設市場に並んでいました。


その隣にあるビルは、地震により立ち入り禁止という状態になっていました(クリックで拡大)。
 

一年近く経った2012年3月6日現在、ようやくビルの取り壊し作業が開始されていました。
 

仙台市内の宅地被害は全壊10000棟を超えます(6月当時の記事)。
記事で紹介されていた泉区松森陣ケ原地区の様子、震災から一ヶ月目の4月10日のものです(クリックで拡大)。


のり面も崩れていますが、この時期は津波被害地域の復旧が優先され、市内の宅地復旧はほとんど手付かずでした。


5月30日、仙台を襲った集中豪雨によりのり面もとうとう崩れてしまい、この事態を受け、ようやくこの一帯の取り壊し作業が始まりました。


その作業は11月過ぎまでかかりました。


今年3月8日現在、この一帯の取り壊しはここまで進んでいます。


この辺りは一帯すべてが地盤沈下を起こし、向かい側にある公園もこんな具合に。


そして現在。もうこれしか直し様がなかったようです。


震災直後は泉区では2箇所しかなかった給水所の一つ、南光台小学校。震災翌日からお世話になりましたが、


この校舎は地震により倒壊の恐れがあるため使用が禁止され、今現在は仮説の校舎が作られています。




仙台駅前では現在再開発の新しいビルが建設中ですが、郊外の住宅地では最近になってやっと取り壊し作業が終りつつあるという状況です。
道を歩くといつもどこかでユンボの音がしているというのが日常となり、メインストリートから一歩住宅地に入ると、そこここで取り壊された住宅の跡地が見つかります。
以下の写真は半径1kmの範囲で見つけたもので、そのほんの一部です。
   
   
   
   

今回の仙台市内の被害については、市で作成した「今回の震災の被害状況及び「仙台市震災復興ビジョン」について」という資料に載せられています(→参照(pdf))。
この資料中に宅地被害地図が載っています(クリックで拡大)。

宅地のみに関してはこちらの資料(pdf)で詳細が分かりますが、仙台市内よりも周辺部の住宅地、それも丘陵地での被害が甚大でした。写真で紹介した所でも、住人達は集団移転を余儀なくされています。
しかし、私の知り合いでも家を失くした人がいますが、その人は
「うちは(失ったのは)家だけだから。」
と言うだけです。
あの津波被害に遭った人の事を思うとこれぐらい、と皆思っているのです。

現在、沿岸部の被災地の瓦礫除去作業が進むに連れ、ようやく市内でも取り壊し作業が始まっていますが、それ以降は人手不足により中々進んでいないというのが現状です。
行きつけの模型屋さんも、震災から10日目にはもう営業を再開し、当時は大いに勇気付けられました。


2012年3月現在、ビルの工事は未だ終っていません。
でもお店の中は完全に元に戻り、毎日馴染みのお客さんが訪れています。


そして震災当日、市内被害の象徴ともなってしまったあのお店も、


夕方はネオンが輝き、でかでかと張り出された「営業中」の幟が、何とも頼もしく感じられるのです。