杜の里から

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考察:環境運動にはなぜEMがまかり通るのか(3)

EM環境浄化運動を行う際、川に何かを投入するという行為は普通は禁止されているので、それを行うには行政の許可を得る必要があります。そして行政は、住民達の自主的な活動という事で、紆余曲折を経ながらも最終的には許可を与える事となります。
しかし実際の所、行政側は住民達のこの活動をどう思っているのでしょうか?
自治体の担当者に直接話を伺った中で、私は担当者自身の苦悩とも言える様な思いを感じる時もありました。
それは、行政と住民達との意識の「ズレ」というものでした。
このエントリーの最終回として今回は、そんな行政側の思いというものを考えてみたいと思います。
ただし、これはあくまで私個人の考えであり、実際は違っているかもしれない事を初めにお断りしておきます(それ故タイトルには〔考察〕と付けています)。
でもこれは、もしかしたら行政側にとっては一番触れて欲しくなかった話題かもしれません。

自治体の本音とは
河川行政に携わっている自治体の担当者はどこでも、いつも頭を悩ませている問題を抱えていました。それは住民達の無関心というものです。
それでも近年は、環境意識の高まりと共に身の周りの環境に目を向ける人が徐々に増え、そして、地元の河川環境を守ろうとする住民達の活動があちこちで活発に行われるようになりました。確かにそれ自体は大変望ましい事ではあるのですが、それがややもすると、行政側の望むのとは違う方向に向かってしまうという事があるのです。
しかし行政側としては、住民達が環境問題に少しでも【関心を持ってくれる事】がまずは重要な事となる訳です。だからこそ、EMによる河川浄化運動の広がりというものは、皆が環境に注目してくれるという事で、行政にとっては実に有難いものであるのです。
しかしながら、本来河川浄化運動で行政が住民達に望む事は、実はEM投入などという事ではないのです。そしてそれは、どこの自治体のサイトの中にも、常に必ず載っている事なのです。
例えば入間市HPを見てみましょう。
ここでは「河川浄化は家庭から」と題し、家庭でできる生活排水対策として、「三角コーナーや排水溝に水切り袋を付ける」とか、「食器などの油汚れはゴムべらや不要な紙や布などで拭き取ってから洗う」とか、「米のとぎ汁は排水口に流さない」とか、そのような事ばかりが述べられています。
つまりご覧の通り、本当にやってもらいたい事はこのように地味な事なのです。
住民にとっては、地味な上に自分の家庭内の事ばかりなので、これではどうしても「浄化活動している」という実感も持ちにくく、また「皆で一緒に」という、運動そのものが持つ一体感というものも味わう事は出来ません。
でも実際の所は、河川の汚染源としては一昔前は企業などからの工業排水が一番の原因でしたが、1971年に施行された「水質汚濁防止法」により工業排水や汚水などは厳しく規制・監視されるようになりました。
そして現在は、河川の汚濁の一番の原因は、実は我々一般家庭から出る生活雑排水が主因となっているのです(→参考)。
こんな説明を載せているのは別にここだけではありません。大阪府(PDF)のはプリントアウトして皆に見せたいくらいです。
しかし、いくら行政がこのような広報を行っても、結局前述の理由から、住民達一人一人に納得させるのは中々難しい事だったのです。

そんな中登場したのがEMでした。
EMによる河川浄化運動の広がりは、まず学校と農家から始まり、やがてそれが障害者施設や地域のNPO活動へと広がっていき、それが議員さん達の目にも止まる事になり、やがてマスコミでも取り上げられ、一気に加速度的に全国に広がるようになった訳です。
このEM活動というものの実際を見てみると、ただ発酵液やEMだんごを投入するだけではなく、家庭での生ゴミ処理や米のとぎ汁の再利用など、実は今まで行政が訴えてきた事も同時になされるものでした。それ故、たとえ河川へのEM投入に科学的根拠の有無を持ち出したとしても、結局最終的には周りからの要請に答える他はなかったという訳です(注:勿論、科学的根拠を盾に認めていない自治体も中にはあります)。
そして最近盛んになってきた「EMだんご」ですが、だんご作りには大勢の人達が関わる訳です。そしてそれは大抵の場合、河川清掃とセットで行われる事が多いのです。だからたくさんの住民達が清掃作業に参加してもらえるなら、EMだんごもまた有難い存在となります。
御幣のある言い方で恐縮ですが、つまりEMだんごは、大勢の人を集める「撒き餌」としての役割を立派に果たしているとも言える訳です。
中にはその活動を積極的に応援し、自治体自らEMだんご投入を呼びかけている所もあるぐらいです。

しかし実際の所、このEM浄化活動というものは水処理の専門家の間では、「どうしようもない」とか「何とかならないものか」とか、「困ったものだ」とか、とにかくフルボッコ状態評判が悪いのです。
そしてその事は、実は自治体の担当者も良く分かっているのではないかと思うのです。
分かっていながら住民達が自主的に始めた事として異を唱える事も出来ず、議員さんからの要望もあったりし、また実際有効な一面もあるからとして、その活動に目をつむるという担当者がかなりの数存在しているのではないかと想像されるのです。
でも、果たしてこのままで良いのでしょうか?
近年の活動を見ているとその規模はますます大きくなり、参加する人々はその効果に何の疑いも持たず、結果ただEM効果のうわさだけが過大に宣伝されるだけという事になっています。
そしてそれよりも問題となるのは、住民達の間に誤った環境保護の考え方が広がってしまうのではないかという事です。

ここで(2)で紹介した長崎県平戸市の中津良川の事例を見てみましょう。実はこの事例は、EM活動の中では数少ない成功例とも言えるものなのです。但し、その「成功」の意味は実際はかなり異なるものです。
この活動は前回エントリーでテレビのニュース映像を紹介しましたが、そこでは省かれていた詳しい内容が、2003年11月に行われたEMフェスタで発表されています。
それによりますと、生徒達は川の汚染原因を探るべく、水生生物指標により中津良川の汚染度判定に着手、そして汚染の原因を特定、浄化方法を探してEMと出会い、EM学習から活用へ、学校が地域へ呼びかけ活動の輪が広がり、そしてEMだんごへと続きます(言い忘れましたが、平戸市は下水道が完備されておらず、中津良川周辺では未だに生活雑排水が垂れ流されている状況でした)。
この活動には川の上流にある平戸高校も協力し、やがて3回目のクリーン活動で川の変化が観察され、それに自信を持った生徒達による「お米のとぎ汁1000リットル作戦」の実施、そしてとうとう「EMだんご一万個作戦」へと規模が拡大していきました。この時の様子があのニュース映像としてテレビで紹介された訳です。

さて、こうして中津良川にはホタルが戻ってくるほどの清流となり、この要因がEMのおかげであったと報告されるのですが、これらの活動をよく見ると、実はこの中に重要なポイントが隠されています。
それは「汚染原因の特定」です。
ここを見ると、生徒達は見事に前述の自治体の説明通りの結論を導き出しています。
次に生徒達が行った事、それは一見「EM発酵液の活用(EM活動)」と一括りにしてしまいがちですが、一番重要な点は、「米のとぎ汁の回収」なのです。
そして同時に、家庭内でのEM使用を薦め、その活動が周辺住民達の意識を変えたという事も大きな要素です。

もう一度、行政が言っていた事を思い出してみましょう。
  
つまり、生活の中でEMを使うようになった事で住民達は排水にも注意を配るようになり、同時に汚染源の一つである米のとぎ汁の回収も行われ、それにより生活雑排水の量も大幅に減り、結果として川の水質が向上したと考えられる訳です。
ここに興味あるデータがあります。
平成21年2月1日から2月28日までの一ヶ月間、埼玉県越谷市蓮田市で生活排水対策の社会実験が実施されました。
その方法は以下のようなものでした(クリックで拡大)。
     
つまり、実際に皆が生活雑排水を流さなかったらどうなるのかを、大規模な社会実験で検証してみた訳です。その結果は驚くべきものでした。
越谷市・出羽堀〕
  
蓮田市・閏戸浮張自治会〕
  
(詳細はこちら
場所によって差があるものの、僅か一ヶ月(場合によっては一週目)で大きな水質改善となったのです。
中津良川の事例も、これはEMを投入したからではなく、生活排水を流さなかったから綺麗になったと考えられないでしょうか。そしてこれは、そういう意味でのEM活用の成功事例と言える訳です。
中津良川周辺では現在下水整備が出来ない状況ではありますが、それでも地元の自治体は合併浄化槽の設置補助事業を積極的に進めている最中で、それにより現在、周辺環境も徐々に改善されてきているという状況も考慮する事が重要です。
しかしEMに捕われるとこのような考えには中々なれず、その活動はどんどんエスカレートしていくばかりとなってしまいます。そして実はEMも、生活排水同様【有機物】である事に変わりはないという事に中々気付かないでいるのです(カルピスやヤクルトを川に投入する行為を想像してみれば分かると思うのですが)。

そもそも綺麗な川を取り戻すには、必ずEMを投入しなければだめなのでしょうか?
いやいや、探してみればEMを投入せずとも綺麗になった河川はたくさん見つかります。例えばこれ、「不老川の河川浄化活動」、また北九州の「紫川」の例などもあります。
私の地元仙台にも実例があります。それは市内を流れる「梅田川」という小河川です。
ここは私が子供の頃は割と近場であったため良く知っているのですが、昔はそれこそひどい臭いをはなつ文字通りのどぶ川でした。
ところが私が学生から社会人となってしばらく地元を離れている間、この川がいつの間にかサケが遡上するまでに綺麗になった事を後で知り、当時を知る者としては大いに驚いたものでした。
これは地元住民と行政がタッグを組み、住民達の地道な清掃活動と行政の下水道事業及び護岸整備により実現したものでした(その時の模様はこちらで詳しく語られています)。
これらは皆、住民達の自主的な活動が行政を大きく動かし、共に共通の問題意識を持って協力しあった好例であると言えます。
そして尚且つ、環境学習においても在来微生物の活性化を促す「エコフィッシュ」の発明とか、EMに捕われていれば思い付く事も出来ない様々な発想が生まれています。
    (解説はこちら
私がEMによる浄化運動に疑問を感じるのは、元々このような身近な例を知っているからなのです。

EM活動に夢中になると、やがては自然環境を顧みる事なくただ投げ入れればいいとしか思わなくなり、やがてそれが「善い事」であると思うようになる、そんな危惧を私は抱いてしまうのです。
中津良川のニュースのインタビューで校長先生が仰っている事も、生徒達が導き出した汚染原因も、実は皆「正しい事」なのです。環境浄化は、【元から断つ】という事が何よりも重要なのです。
ここで言う「正しい」とは「正解」と言う意味であり、「合っているか間違っているか」という思考の先の結論を意味します。
しかしEMに目を奪われてしまうと、この「正しい」の意味がいつしか「正義」の意味合いで用いられ、いつの間にか「善い事か悪い事か」という価値基準の考え方にすり替ってしまうのです。
環境浄化運動というものは本来「正解か否か」の考え方で行わなければならぬのに、EM運動は「善い事か否か」の考え方で行われており、EMに捕われてしまった人は「これは善い事だから」と思い込み、変化の要因を皆EMのおかげとしか考えられなくなってしまい、結果その先には「盲信」が待ち構えているという事になるのです。

行政はそのような環境運動を望むのか、ただ結果さえ良ければそれでいいのか、担当者の本音は果たしてどうなのか、私はそこの所をぜひ知りたいと思っているのです。
(終わり)