杜の里から

日々のつれづれあれやこれ

EMに罪はない

朝日新聞にEM批判の記事が載ってから、にわかに周辺状況が騒がしくなってきました。
そして朝日新聞のみならず、今度は毎日新聞の斗ヶ沢秀俊氏記者もEM報道に警鐘を鳴らす様にする事がtogetterにまとめられています。
ただ、ここに集められた意見などを読んでみますと、中には、と言うより多くの人達は、EMそのものをすべて否定している様に私には見えてしまいます。もしそうだとするならば、それは大きな間違いです。
前回エントリーの中では参考として挙げましたが、以前書いたエントリー「EMへの疑問(3)~EMは「ニセ科学」か?~」で私は、

ただ単純な「ある」「ない」、「善い」「悪い」、だけで論じてしまう事は、結局批判する側もニセ科学信奉者と同様の考えに陥ってしまう危険があると思うのです。

と述べました。そしてその思いは今でも変わっておらず、それどころか近年のEM批判を見るにつけ、ますます強くそう感じる様になっています。
今回は改めてその事について注意を促したいと思います。

私はEM活動での一番の問題は「河川への直接投入」という環境浄化活動だと思っています。そしてその活動が科学的になんら検証される事なく、ただ頭から「環境に良い」と信じ込んでしまっている姿に警鐘を鳴らしてきたつもりです。
ただここで改めて強調したいのは、EMというのは普通の農業用の微生物資材であり、うまく使えばちゃんと効果が出るものであるという事です。
そしてこういう資材を用いている農家の人達は、大抵の場合無農薬有機農業を目指している事が多く、化学肥料を用いない自然農法を研究する中で偶然EMに巡り合ったという人もおり、それをうまく使いこなして美味しい農産物を生産している人もいる事は事実なのです。現に、EMのマークが付いた農産物は確かに美味しいです。
しかしながら、EMだけがこういう成果を出すのかと言えば、当然ながら他の微生物資材でも同様な成果を上げる事は可能です。
ただここでの問題は、この成果を見て、生産者や周りの人が比嘉さんが唱える「EMの万能性」を確信してしまうという事で、これがまたEMのネットワークで全国に伝わり、やがてEMユーザーはこの成功例を根拠として、何の疑いもなく比嘉さんの教えを信じ込んでしまうという事になっている訳です(もちろん、すべての人がという訳ではありませんが)。
この具体例があの「EMだんご」という訳です。EMだんごは元々、ただ比嘉さんの「ジャブジャブ使う」「効くまで使う」という言葉を信じた、とあるEM農家の方が思いついただけのものなのです。

EMを批判する人は、比嘉さんの「何にでも効く」「万能である」「波動」などという発言を問題視していますが、その事を批判するあまりEMそのものを「効かないもの」であると思い込み、EMそのものを全否定していないでしょうか。
もしその様な考えを持っているならば、それは大きな間違いです。

前回エントリーで紹介した、江本勝の「水からの伝言」を考えてみて下さい。これは様々な方面から批判された訳ですが、それは一体どのような批判だったでしょうか?
あの本で示された結晶写真は皆本物です。そして水そのものも、もちろん本物でした。
それを、
「いや、あの結晶写真はニセモノだ!」とか、
「あの水そのものに何かタネがあるに違いない!」
などと批判した人はいなかったでしょう。
多くの批判は江本氏の語る内容に向けてのもので、水や結晶写真の存在そのものへの否定ではなかったはずです(→こちら)。
それは、水そのものや結晶写真には別に罪がない事を皆が分かっていたからです。
EMも同じなのです。

実は朝日新聞7月11日の記事には、正直一抹の不安を感じていました。
3日の記事とは違い、記事全体のトーンがはなから徹頭徹尾EM全否定の姿勢が感じられ、これでは納得しない人がかなり現れるだろうなと思っていた所に、案の定EM研究機構からの反論DND出口氏の批判が登場した訳です。
今回の朝日新聞の2回に渡るEM批判記事は、1回目はEMの最も重要な問題点を指摘していますが、2回目は逆に問題を拡散し過ぎてしまってその主題がぼやけてしまったばかりか、EMユーザーにとっては事実誤認のバッシング記事にしか受け取られず、かえって逆効果だったのではという思いを抱いています。
EMの報道については以前こちらで取り上げましたが、否定肯定の記事いずれも「勉強不足」の感が拭えません。
これからEMについて社会に問題提起をするならば、伝えるべき論点をきちんと整理し、EMユーザーにもいらぬ誤解を与えない様注意しつつ、「正しい検証のあり方」のお手本をぜひ示して欲しいと願うものです。


前々回のエントリーで引用した「甦る未来」の中で比嘉さんはこう述べています。

EMが万能でないという人々は、たんにEMの万能を引き出せないだけであり、EMに罪はありません。

これは暗に、EMの能力を引き出せないのはお前が悪いのだと語っているのであり、それをもって自分が言う事を否定するのはお門違いであると、この一文で比嘉さんは、EMのみならず自分自身への批判も真っ向から否定している訳です。
そして比嘉さんは、EMにはおまえらにはまだ分からない、私にしか知らない素晴らしい力があるのだと、そう周りに思い込ませる様な「語り」を行い、EMの『神話』を作り上げているのです。
しかし皮肉な事に、ここで比嘉さんが語った様に、確かにEMに罪はありません。ただそれだからこそ、「EMは罪深い」のです。


批判する人が行うのは「EMの全否定」ではありません。
行うべき事は、人々を「盲信」に導く「EM神話」の打破なのです。



(追記)
このエントリーの草稿中に比嘉さんが本家に反論を載せました(→こちら)。
内容についてはすでにtogetterで議論されていますが、比嘉さんが挙げた実例については精査してみる必要はあるかと思います。
三重県ではEMの利用も主に生活排水対策として家庭での奨励が主で、これについてはある程度の成果は見込まれると思いますが(河川へのEM投下もありますが)、十和田湖の浄化報告は周辺の下水道整備事業の事にはまったく触れていません。
こういう比嘉さんの「語り」をただ頭ごなしに否定するのではなく、それを一個ずつ地道に検証していくのがマスコミの大事な仕事だと感じます。

(参考)
「水からの伝言を信じないで下さい」
・自ブログ 「考察:環境運動にはなぜEMがまかり通るのか(2)」